今回の特別例会は、日本海に面した古都、金沢まで足を延ばしました。金沢は、16世紀半ばに本願寺が布教の拠点として、「金沢御堂」を置いた事に始まり、その後約400年前に前田利家公がこの地に城を定め、以来加賀百万石の城下町として発展、藩政時代には江戸、大阪、京都に次ぐ規模の大都市であったと言われています。城のまわりに形成された武士の町、活気溢れる商人の町、城下を守るように配された寺の町など、城下町の風情が今でも残り、日本の文化が美しく息づいています。
今回の企画をお世話くださったメンバーは、かつて銀行支店長時代に何年かを金沢で過ごされ、兼六園を初め、加賀百万石を誇る金沢の豪華な文化遺産の数々や、由緒ある加賀料理、日本海の海の幸等々、金沢の良さを知り尽くされておられ、今回はやまゆ会のメンバーに、その一端をご紹介頂けるとのこと、企画が決まってから一同この日を楽しみにしていました。
山歩きの会、やまゆ会なのに山はどうなった? 心配無用、金沢には市内から車で30分、金沢平野と栃波平野を仕切るように南北に長く伸びる山塊からなる、日本三百名山、花の百名山の一つ、医王山(いおうぜん)があります。医王山は兼六園からも望むことが出来、適度な高さに岩峰、滝や池、森林、眺望、伝説、民話なども多く、一度は登ってみたくなる魅力ある山です。今回は地元「金沢ふるさと愛山会」会長、H氏にご案内頂きました。
大阪から特急サンダーバードで2時間半ほどで、9:50 金沢駅集合。前日までの雨も上がり、気温も暑くもなく寒くもなく、絶好の山歩き日和となりました。これもひとえに皆さまの日頃の行いの賜物と、感謝・・・?!?! 金沢駅には、準備万端のレンタカーに、支店長時代からのお付き合いの運転手さんがお迎えに来て下さってました。既に駅でH氏と合流済みで一路、医王山へ。レンタカーに乗り込んだ途端に、愛山会編集の詳しい資料も一式頂きました。
医王山については次のとおり。717(養老元)年、履く産を開いた泰澄大師が719(養老三)年、この山に登り、薬草が多いので唐の育王山にちなみ育王仙と名付けました。しかし、722(養老六)年、当時の帝、元正天皇が大病に罹られたので、大師がこの山の薬草を献上したところ快癒され、帝は大いに喜ばれて泰澄に神融法師の称号を賜り、山には医王山と命名されたといいます。
また、一説には泰澄が聖武天皇の勅命により、疱瘡流行を止めようと祈祷したところ、悪疫が治った。それは如何なる名医も及ばない、医の王であるというので医王山と名付けられたともいうとの事。その他、遠くから眺めると形のいい峯がうねうねと連なってるから遥山(ようせん)と呼ばれたとも伝えられているそうです。
金沢市よりあまり遠くない上に、山中の地形が極めて複雑で、傾斜は急でありしかも高い崖、深い谷、美しい滝、多くの奇岩があり、風趣に富む山で地質よりみれば、この山は第三紀層とその中に噴出した石英祖面岩とをもって構成されています。医王山と名の付く山はなく、一つの山塊をさして医王山と呼んでいます。最高の医王山は奥医王山(939m)とも言われており、その西の白几山(880m)、北の黒瀑山(712m)と共に一大山塊を形成しています。
さて、有り難いことに地元の方々の案内とあって、うろうろすることも無く、西尾平登山口到着。当初の予定ではここから歩き始める予定でしたが、夕霧峠まで車で上がり、ここから奥医王山を目指します。登り始めると、花の百名山とあって、雪国の長い冬を耐えて春を迎えた、可愛らしい花々が一斉に此処彼処にと姿を見せてくれていました。ユキツバキ、サンカヨウ、トクワカソウ、ハルリンドウ、ショウジョウバカマ、チゴユリ、ユキグニミツバツツジ、キキマメザクラ、アケビ、マキノスミレ、フモトスミレ等のスミレの数々・・・等々、まだまだありましたが覚え切れません。
これは何?と尋ねるたびに、H氏から名前を教えて頂き、またユキツバキは日本海側の標高500m以上に見られる種類で、一枚一枚花びらの大きさが違うユキグニミツバツツジは、やはり日本海側の山に見られる種類で、風土の影響を受ける為高木にはならない、ミズナラは水分の含有量が多いため、虫害の被害がひどく、いずれは医王山で見ることは出来なくなってしまうのではにか等々、H氏のお話は尽きることがありません。
また、医王山は前述のとおり、薬草も多いとの事、実際に当婦という薬草がありましたが、葉の匂いは正にクスリそのものでした。興味深いH氏のお話を伺いながら、ブナ、その他の木々の新緑に染められるようでした。木々たちが長い冬を越えて新しい命を萌え出す美しさは、私たちを癒してくれるだけでなく、辛いことがあっても新たに歩き出す勇気を与えてくれているように思いました。
1時間弱で奥医王山頂上に到着。ここには展望台が設えてあり、霞んではいるものの、白山はまだ真っ白に、白山に連なる山々は残雪に彩られて、それぞれ遠くに望むことが出来ました。昼食後は夕霧峠まで戻り、今度は白几山を目指します。医王山の北方にある峯で、山上の一部が岩石露出し、草木が生えないのでこの名が付きました。標高は896mです。白几山の頂上からは360度周りが見渡せる展望台があります。ここからは白山、日本海、立山連峰から白馬連峰まで見えるように思いました。H氏にも確かめたところ、うっすら見えていますねと仰って頂き、嬉しくなりました。
この後は、覗へ向かいます。覗休憩所からは医王山のシンボル、トンピ岩を見ることが出来ます。この岩は大池の南隅に高く聳え立ち、その形が鳶のくちばしに似ていることから、この名が付いたと言います。大池水面から126mの高さにあり、医王山中最も豪壮な感じを与えています。ここ医王山は山菜も豊富なようです。同行して頂いた愛山会のお1人がコシアブラを採られていて、混ぜご飯にするのだそうです。味のついた混ぜご飯が炊き上がった時に刻んで混ぜ込むとのこと。新鮮な山菜ならではの食べ方をうかがい、さぞ美味しいだろうなと羨ましく思いました。
ここから新緑の中、木漏れ日を楽しみながら、シガラクビを経由して西尾平へ戻りました。充実の山歩きの後は恒例の温泉です。今夜のお楽しみ、大友楼でのお席の為に、湯湧温泉にて一汗流して、サッパリとしました。今夜の宿泊処に荷物を置き、由緒ある大友楼へと出向く前に、身だしなみを整えます。
大友楼は、創業天保元年(1830)の老舗料亭。代々加賀藩の料理方、御膳所として仕え、現当主で16代目となり前田藩の伝統ある儀式料理を今に伝える伝統ある「加賀料理」がいただける唯一の料亭です。しっとりと打ち水が打たれた入口には季節を先取りした紫陽花が飾られ、風情のある佇まいです。お庭にも年代の感じられる灯篭があり、お部屋の調度品にも謂れが感じられます。
食事が始まり、色鮮やかな九谷焼や伊万里焼、みごとな輪島塗の漆器等に盛られた料理が次々に運ばれてきます。美味しいのはもちろんのこと、辛味の強いものの次には薄味のあっさりしたものが出され、そうかと思えばしっかりと濃い味が染み込んだ煮物が出される、といったように、味にメリハリがつけられているようです。昔は砂糖は大変な貴重品でしたが、加賀は非常に裕福な国であったので、ご馳走というと、砂糖をたっぷり使った甘い味付けにしたとのこと。
金沢の郷土料理であり、結納や披露宴などのハレの場に出される「鯛の唐蒸し(たいのからむし)」は、鯛のお腹に人参、きくらげ、麻の実、銀杏などたくさんの具が入ったおからが詰まっていますが、こちらのおからの味付けも、しっかりした甘い味付けです。それをあっさりとした鯛と一緒にいただくのが、また絶妙の取り合わせ。また、柔らかいおからの中にプチプチとはじける麻の実の食感もこれまた絶妙でした。この鯛の唐蒸しを調理する際、鯛はお腹から開くと、"切腹"を連想させるため、必ず"背開き"にするというのは、武家の国・加賀らしいジンクスだそうです。金沢はよく小京都と言われ、京都に似ているように思われていますが、京都の公家文化に対し、金沢は武家文化を自負しているとのお話もうかがいました。
これもまた郷土料理の「治部煮(じぶに)」は、じぶじぶ煮るから治部煮と言われるそうですが、こちらもまったりと甘い味付けにさっぱりとしたわさびが添えられていました。
料理の美味しさだけではなく、器も見事なものばかりで、運ばれてくる度に見とれてしまいました。治部煮には専用のお椀、"治部煮椀"が使われるなど、料理をもてなす演出のこだわりに儀式料理の伝統が感じられました。
お腹一杯にご馳走をいただき、お酒もたっぷり美味しくいただき、ご機嫌に酔って幸せな気分で外に出ると、尾上神社のギヤマンの嵌め込まれた神門の上に、朧月がかかっていました。
今日のお時間 美酒のお陰ですっかり忘れました。
今日のお風呂 金沢の奥座敷 湯湧温泉